新シリーズ
「蒋佐衛門くんの散歩道」



第13回 西天神社・昆陽寺


西天神社参道
ここも,行基さんに関係が
有るそうです。が
ここから入るのか
171号線にへばり
ついてるからな

天神社、東天神社、と
西国街道沿いに
神社がありますが
西国街道遍にて
また、取り上げなアカンな
少し入っただけなのに、
ずいぶん、静かだなぁ。

171号線なんか
無い時代なら雰囲気
違うだろうな
いろいろ調べてみたが、(たいして
調べてないが)昆陽寺の説明
とかは有るんだが、陰に隠れて、
皆説明不足のようだ、
しかし、説明が無いと言うことは、
想像はかってかな そんでもって、
昆陽布施院の役割を、この3つの
神社が、行基さんの起こした
昆陽池の改修や猪名野笹原の
整備事業の集合場所(布施の場所、
または、簡易宿泊所・
{ハローワーク}とか)ではと
勝手に想像してみましたので

ホントの所、結われとか、不明
ここの狛犬は、
頭のてっぺんが
扁平に見えます。

狛犬ばかりの
ホームページも・・・
また、狛犬特集も

かっこいいねっ。
なぜに、見えない空を、
カラスの巣がありそうです。

枝の先まで10・15メーター
でしょうか。
ここが、昆陽寺です。
行基さんに由来する
お寺です。が、行基さん
が昆陽池を開削して
いたときの、昆陽布施院
では無いようです。

しかし、立派な山門ですね。
西国街道に面して睨みが
利いていると言うか。

この山門は第2門だそうで、第1門は
尼崎の富松神社の近くにあった
そうです。方50町歩の敷地
といいますから昆陽池、猪名野笹原、
瑞が池、山本までの敷地
を要していたようです。
ホンとかいな、行基はん、
一代勢力だったようですなぁ。
鐘楼でしたか、修復中です。

梵鐘は4代目とある。
消耗、激しいんだ。
行基さんから、時は離れるが、
天正7年(1579)織田信長が、有岡城主、
荒木村重を攻略するが、
その時、兵乱、火災にあい、本寺
二十三坊はことごとく燃えたというから
先ほどの50町歩もうなずける、
それが残っていれば、今の伊丹は
、ずいぶん変わった観光の都だった
でしょうね。

本堂(薬師堂)です。
スケールの大きい話に、
負けない歴史を
感じさせる雰囲気

こういう池つきの
お堂は、いいですね。

観音堂

江戸時代の遺構だそうです。

ちょっとした、池ですなぁ。
まわりとの関係がいまいち不明
別の建物があつたのかなぁ。

鎮守堂だそうです。
震災の後修復されていますね。
山鳥のほろほろとなく 声きけば・・・行基菩薩

伊丹には、多くの歌碑
や古い道標が、あるが
全部読めるだけの
素養があればなぁ。・・・残念。 
古いギャグ、でも平成の
ギャグですが、
何百年持つギャグなんて、
歌とか詩は、ギャグちゃうで
馬鹿ちゃうか

行基堂だったか、
復元して欲しいね。
行基菩薩像

少し、場所が違うが、御願塚古墳の前にあります。


最近の像でしょうが、
こうして像があると
イメージが湧きますね。
河内国大鳥郡の生まれ681年出家
父は、百済系渡来人高志氏は
王仁(わに)の後裔とされる西文氏(かわちのあやし)母は河内国大鳥郡蜂田道(現在の家原寺)の出。
15歳より法興寺、薬師寺に住し、
やがて、山修行をするも、37才頃から民間布教を始めた710年ころ平城遷都の頃は、過酷な労働で逃げ出した逃亡民をかくまい、朝廷から布教活動を禁止されるも信者は拡大をつづけ、
菅原寺を平城京に作り、その頃より信者もふえ、723年(養老7年)三世一身法は、自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を進め、活動は拡大した。これ以後、朝廷もこれを認め、昆陽池の開削も行われたようだ 740年(天評2年)には薬師寺の師位僧(上級官僧)に迎えられ
 恭仁京遷都や、大仏造営に参画、紫香楽京遷都ののちには(745年)初の大僧正になっている。80歳にて入滅。
大事業をした人のようです。

こんな言葉がかかれてました。

ここにも、寺本の
猪名野神社があります。

やっぱり、震災の影響は大きいね。
悪いが新しいのはどうも。
やがて、いい雰囲気にもなりますよ。
ここも、行基さんの関係かな
花里小学校の横か裏か
の用水路、今日は出番が
なかった蒋の散歩道に指定だ。

蒋談、そんな指定て、アツタかな。
じゃ、指定て何個めよ。
詳しいこと、聞くな思いつきなんだから。
でも、近くに住んでたら、
毎日でも散歩したい
だろう。
蒋談、「じゃぁ、俺が指定していくから
「蒋の散歩道」指定は
俺(蒋)が決めるぜ、ここも候補で。」
1号は金岡川、2号は伊丹緑地、
3号は・・・


つづく・・・・またまた、絶好調、、「蒋の散歩道」  脱線多いが、、

つづく 最初へ 戻るボタン戻る